吉田松陰の念いは現代の大企業にもつながっていました

先日、大阪の友人のはからいで太閤園の淀川亭という料亭でランチをいただきました。
淀川亭は大正時代に建てられた書院式の和風建築で、大きな唐破風の玄関を入ると、全13室の豪華で格式の高い空間が広がっています。

ここは元々、個人の住まいだったと聞いてびっくりしました。さらに淀川亭はそのごく一部だと聞いてさらにびっくり。淀川亭は東邸で、この他に本館と西邸、日本庭園などがあって網島御殿と呼ばれていたそうです。

いったいどんな人の御殿なのか、その人物についてちょっと調べてみると、尊敬する吉田松陰先生や、私が学んでいる日産鮎川義塾の鮎川義介、そして故郷秋田にもつながっていました。

この御殿を作ったのは藤田伝三郎という事業家です。藤田は山口県萩の出身。高杉晋作に師事し、奇兵隊に参加しました。そこで桂小五郎、井上馨、山県有朋らと出会い、彼らとの交友によって政商として活躍します。

彼が創った藤田組は明治17年に政府から秋田県の小坂鉱山の払い下げを受け、この鉱山経営によって藤田財閥を築いていきます。大阪の網島御殿は秋田県で得た富によって作られたとも言えるわけですね。
藤田組は非鉄金属のDOWAホールディングス(旧同和鉱業)や、椿山荘やワシントンホテル、太閤園を運営する藤田観光として現在に至っています。

後年、藤田組は経営が厳しくなる時期がありますが、この時に鉱山事業を立て直したのが、小坂鉱山事務所長の久原房之助でした。久原は藤田伝三郎の甥です。

その後、久原房之助は藤田組を辞め、茨城県の赤沢銅山を買収して日立鉱山と改名、久原鉱業所を設立して久原財閥を築いていきます。しかし第一次世界大戦後の恐慌や久原の政界進出で久原鉱業は経営の危機に瀕し、経営を妻の兄である鮎川義介(母は井上馨の姪)に引き継ぎます。

鮎川義介は久原鉱業を日本産業株式会社に改称し持株会社に変更。株式を公開して資金を集め、日産自動車、日立製作所、日産化学、日産火災、日産生命、日本水産、日本冷蔵、日本ビクターなどからなる日産コンツェルンを築きます。

こうして歴史を紐解いていくと、吉田松陰から高杉晋作、井上馨、藤田伝三郎、久原房之助、鮎川義介、そして日本を支える数々の大企業へと繋がっていることがわかります。

29歳で刑場の露と消えた吉田松陰でしたが
彼の念いはさまざまな人を経て現代までつながっているのですね。

太閤園

投稿者プロフィール

株式会社きれい 代表取締役 柴田幸治
大手光学機器メーカー勤務後、経営コンサルタントとして2000年に独立起業。
旺盛な好奇心とちょっと変わったアイデア、幅広い人脈で、販売数100万個を超えるヒット商品や、海外のコンテストで世界一を獲得した商品などをプロデュース。
4つのきれい(くらし・かんきょう・からだ・こころ)を基にした独自のメソッドで、企業のCSR・商品開発・マーケティングを支援しています。

NPO法人ウルシネクスト理事長