六氏先生のお墓に参拝し命がけの覚悟にふれる-台湾訪問記3

昨年放送されていたNHKの大河ドラマ花燃ゆをご覧になっていた方ならば覚えているかもしれませんが、大沢たかおさん演じる楫取素彦の次男に楫取久米次郎という人物がいたと思います。

実はこの楫取久米次郎はこの後楫取道明と名乗り教育者としての道を歩むのですが、40歳を前に台湾にて亡くなります。

なぜ彼が若くして台湾という地で亡くなったのか、このことにつながる台北市内の芝山公園を訪れました。

1895年(明治28年)日本による台湾統治が始まると、文部省の伊沢修二は初代台湾総督樺山資紀に対して「教育こそ最優先すべき」と訴え、日本全国から集めた人材7名を連れて台湾へ渡り、現在の芝山公園の地に芝山巌学堂という小学校を設立しました。
この7名のうちの一人が楫取道明です。

芝山巌学堂は生徒6名からスタートしましたが、次第に周辺住民に受け入れられ、わずか数カ月後には21名に増えていました。

伊沢は日本人と台湾人が相互に理解し合い混和していくことを理想としていたため、日本人と台湾人の生徒は寝食を共にしていたそうです。

そんな中でも抗日ゲリラの活動は続いており、教師たちを心配した住民たちも武器を持つことを進めましたが、教師たちは「身に寸鉄を帯びずして住民の群中に入らねば、教育の仕事はできない。もし我々が国難に殉ずることがあれば、台湾子弟に日本国民としての精神を具体的に宣示できる」といって、丸腰でいたそうです。

その年の暮れ、伊沢と山田耕造の二人が台湾を離れている時、治安がさらに悪化。住民たちは教師たちに避難を求めるも、「死して余栄あり、実に死に甲斐あり」と芝山巌を去ろうとしませんでした。

そして翌1月1日、約100人の抗日ゲリラに襲われます。教師たちは説得をしますがゲリラたちは賞金目当てもあって彼らを惨殺。6名の教師と用務員一人は台湾の露と消えました。
台湾の人々は武器をとることなく信念を貫いた彼らを手厚く葬り墓をたてました。

まさに命をかけて台湾の教育に取り組んだ教師たちは、のちに六氏先生と呼ばれます。
芝山巌は教育の聖地となり、命をかけて教育の必要性を説いた姿は芝山巌精神として語り継がれています。

現在芝山公園には六氏先生のお墓があります。
(戦後このお墓は一度破壊されますが、このことについては別にご紹介します。)

植民地の統治開始後、すぐに教育に取り掛かり、命がけで教育を広めようとした。
日本人の植民地統治の一つの例としてご紹介しました。

投稿者プロフィール

株式会社きれい 代表取締役 柴田幸治
大手光学機器メーカー勤務後、経営コンサルタントとして2000年に独立起業。
旺盛な好奇心とちょっと変わったアイデア、幅広い人脈で、販売数100万個を超えるヒット商品や、海外のコンテストで世界一を獲得した商品などをプロデュース。
4つのきれい(くらし・かんきょう・からだ・こころ)を基にした独自のメソッドで、企業のCSR・商品開発・マーケティングを支援しています。